〆切、諦め、習慣 が書くための要件 〜『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』千葉雅也 等 著 を読んで 〜

〆切があることで諦めがつき、そして書ける

書きたい気持ちとは裏腹にまったく書けない。

書けない悩みからいわゆる文章術の本を読むものの、読んだからといって書けないことに変わりはない。いざ書きはじめても、今度は文法など些細なことが気になってしまい、その訂正に時間を使い、書き進めることができない。

なぜこんなにも書くことが難しいのだろうか。

例えば、毎日のようにブログを書き続ける人がいる中、なぜ自分にとって書くことのハードルがこんなにも高いのだろうか。これは文才の有無なのだろうか。

毎日ブログを書き続ける人は、きっと短い時間で書くことができる特殊なスキルを持つ人たちなのだろうか。それとも、何か特別なテクニックがあるのだろうか。

しかし、いくら文章術の本を読んでも、自分が思い描くような書くためのテクニックは見当たらない。

きっといつかはスラスラと文章が書けるようになり、書く時間が短くなるのだろうと期待していたけれど、実際はそのようにはならずいつまでたっても書けない。

本書からこれまでの書くことへの悩みが救われた気がします。なぜなら、本書にあるように、執筆のプロであっても、書けずに悩み苦しんでいることを知ったから。

では、執筆のプロたちは書くためにどのような工夫をしているのだろうか。

書くためには「〆切」が必要とのこと。

〆切という期限を設定することでようやく書けるようになる。初歩的なことではあるが、結局は〆切という縛りがないと書けないものということを知り、安堵します。

執筆のプロでも〆切がないと書けないのに、自分が〆切無しにスラスラとかけるはずがない。このことに気づけただけでも、肩の荷が降りたような、気がします。

〆切が無いといつまでたっても自分の中で納得する文章を追い続け、そしていつまでたっても完成しない。

〆切を設定することで、納得する文章を追い続けることを諦めることができ、諦めることではじめて文章が完成する。

なるほど、文章を書くとは「〆切」と「諦め」があってこそ完成するもの。

まるで、夏休みの宿題が夏休み最終日にならなければ終わらない子供の頃を思い出すよう。大人になっても子供と同じようなことをしている。

 

結局、原稿にとっての最大の有限化装置って〆切じゃないですか。〆切直前に急に書けてくるときがありますよね。「うお、なんかすげ ー繫がってきた!」みたいな。これって実際は〆切が近づいてきたことによって、不要な部分や現時点では実現不可能な部分が落ちていって、今回はこれだけしかできないという限定的な形が明確に見えてくる、そのことで筆が走るってことだと思うんですよ。だから結局は幼児性を捨てて、その「諦め」をどれだけ前に持ってこられるかってことだと思う。

〆切という最終の、決定的な有限化の枠を通してしか、自分の現在を有限な形をもって切り出すということができない。

 

書くためには習慣

「〆切」と「諦め」のほかに文章を書くにあたって重要なことは、習慣だと思う。

いつか文章を書こう、時間が取れたら文章を書こうではいつもでたっても着手できない。日中の仕事の隙間時間に文章を書こうとしても実際は書けない。なぜなら、隙間時間に文章を書こうと考えることが難しいから。隙間時間があっても、その隙間時間を文章を書くこと以外のことに使ってしまう。文章を書くことの優先順位がとても低い?

なぜ優先度が低くなってしまうのだろうか?

それは文章を書くということが決してラクで楽しいものではなく、つらいものであるからだろう。

だから、隙間時間に文章を書くことを避けて、そのほかのラクで楽しいものに時間を使ってしまう。これではいつまでたっても書くことに着手できない。

文章を書くには、いつか書こうではなく、いつ書くかを決める必要がある。そして、いつ書くかを決めたら、それを習慣にすること。習慣にすれば、強制的に書くことに向き合える。

私の場合は、起床してからの一定時間を書く時間と決め、習慣にしよう。

「〆切」「諦め」「習慣」を設けて初めて文章を書くことができる。

 

ルーティンこそが、背中あわせになっているキリのなさに制約をかけ、折りあいをつけ、物体‐身体的次元で執筆の態勢と流れを継続させる。

よどみに入ってもこれまでどおり一定のリズムで生活し、毎朝ログを読み、画面に向かうこと。身も蓋もない平凡な気づきだが、それしかないのではないだろうか。よどみはいつだって執筆のすぐそばにある。よどみの渦中で唯一のコンパスがこのログだとして、継続することを支えているのはやはり身体と習慣に他ならないのだ。

一日中ダラダラ書くくらいなら時間で区切るべきなのではないか、重要なのは文字数よりも継続性ではないか、という冷静なツッコミ。態勢と流れを支えるのは身体と習慣なのだ。

 

アウトラインを気にせずにとにかく書く

文章を書く際はアウトラインを作ってから書くという考え方があります。

しかし、文章を「書きながらアウトラインを作る」ことも有用です(こちらの記事を参照)。

「書きながらアウトラインを作る」と同じような主張が本書でもとりあげられている。

とにかく書くことが大切。よくわからない文章であっても良いからとにかく書く。執筆のプロであっても、よくわからない文章を書いてしまうというところに、安心感を持つ。執筆のプロでもそうなのだから、自分が分かりやすい文章を書けるはずがない。

とにかく書こう、みんなそうやって書いているんだからと本書は背中を押してくれる。

とにかく書いている。この原稿をとおして気づいたのだが、ぼくはとにかく書く。よくわからない文章を書いてしまう。書きながらなにが言いたいのか、いや、むしろこの言葉たちがなにを言いたいのかが、かろうじて見えてくる。先に骨格があって肉づけするのではない。まず肉を、どうしようもない肉を引きずり出し、積み重ね、あるとき「ああ、こうなるのか」と気づきが訪れる。あとから骨をぐいぐい突っ込んだり、目鼻をつけたりして、それっぽい塊をつくっている。渾沌さんから欲望-幻想を盗み出しつつ、しかしキリのなさに呑まれてしまわないこと。物体‐身体的次元を操作して執筆の態勢や流れをドライヴさせ続けること。書くことはおそらく、その中間にある。