税理士が『演劇入門』鴻上尚史著を読んで見出した、仕事の本質

こんにちは。栃木の税理士伊沢です。

演出家の鴻上尚史さんが書かれた『演劇入門 生きることは演じること』という本を読みました。「演劇」と「税理士」。一見すると全く接点のないように思える二つの世界ですが、読み進めるうちに、これはまさに税理士の業務における姿勢や、お客様との向き合い方そのものを語っているのではないかと、強く感じました。

そこで、本書の心に残ったいくつかの文章を引用しながら、これからの税理士に求められる役割や価値について、考えてみたいと思います。

税理士もまた「役割を演じる」存在

私たちは日々、意識的にも無意識的にも、様々な役割を演じながら生きています。それは、税理士も例外ではありません。鴻上さんは著書の中でこう述べています。

私達は、日に何度も自分の役割を変えます。(中略)私達はいろんな場面で役を演じます。固定した立場ではなく、結果として人格も変化します。(中略)と言って、嘘をついているわけではありません。新入社員として振る舞っている時、山田一郎は真剣です。それは、俳優が『走れメロス』のメロス役を演じている時、真剣であるということと同じです。俳優は嘘をついているのではありません。

税理士は、ある時は淡々と数字を分析する専門家であり、ある時は経営者の夢や悩みに寄り添うパートナーです。時には、事業の継続のために厳しい現実を伝え、耳の痛い指摘をする「嫌われ役」を演じなければならない場面もあります。

これらは決して嘘をついているわけではなく、その時々でお客様にとって最も価値のある役割を「真剣に演じている」のです。俳優がメロスになりきって友を救おうと本気で思うように、税理士も「この会社の成長を本気で支援したい」という思いで、それぞれの役割を演じ分けているのではないでしょうか。

私たちの仕事は「ライブ」であり「インタラクティブ」

近年、税理士業務の多くはAI化が進み、効率化が図られています。しかし、全ての業務がそれで完結するわけではありません。鴻上さんの言葉は、その理由を鋭く突いています。

演劇がインタラクティブだということの一番の長所は、前述したように、観客とさまざまな形で対話が可能なことです。(中略)特定の集団のその瞬間の空気を吸って、その場を共に生きた時に、ジョークの言い方が、一番ふさわしいものに変化するのです。

決算書や申告書という「記録された映像」を納品するだけが税理士の仕事ではありません。お客さまとの面談は、まさに「ライブ・パフォーマンス」です。決算報告の場で、社長の表情が曇った時、安堵のため息が聞こえた時、その「空気」を感じ取り、言葉を選び、説明の深さを変える。そのインタラクティブ(双方向)な対話の中にこそ、AIには真似のできない価値が生まれるのではないでしょうか。

スピーチやプレゼン、授業などでぶつかる問題は、俳優が向き合う問題とまったく同じなのです。

マニュアル通りの説明は、時に空滑りします。その場の空気を感じず、ただ覚えた言葉を機械的に繰り返すだけでは、相手の心には届きません。お客様の期待を少しだけ超える「予想を裏切り、期待に応える」提案は、こうしたライブの現場から生まれると思います。

目指すは「より親密に、より着実に、より創造的に」

テクノロジーの進化は、「より多くの人へ、より速く、より正確に」という価値を社会にもたらしました。税務や会計の世界もその潮流の中にあります。しかし、鴻上さんは演劇の本質をこう表現します。

つまりは、演劇は、「より多くの人へ、より速く、より正確に」ではなく、「より親密に、より着実に、より創造的に」を目指すものなのです。(中略)頭ではなく、身体が理解していく速さが「人間の速度」なのですから。

これは、これからの税理士が目指すべき姿ではないでしょうか。

「より親密に」とは、 一人ひとりのお客様と深く向き合い、信頼関係を築くこと。「より着実に」とは、急成長だけを追うのではなく、お客様の「人間の速度」に合わせ、着実な成長をサポートすること。「より創造的に」とは、定型的な処理はAIに任せ、人間だからこそできる創造的な業務を行うことと考えます。

本書でも触れているように、かつて写真が発明された時、「絵画は死んだ」と嘆かれたといいます。しかし、絵画は「正確な描写」を手放し、印象派など「創造力」によって新たな表現の世界を切り拓いたといいます。私たち税理士も、「より速く、より正確に」という土俵から一歩踏み出し、人間ならではの価値を追求すべき時なのかもしれません。

「独り言」の挨拶から、「対話」のコミュニケーションへ

本書の中でのマニュアル化された接客に関する指摘も強く印象に残りました。

「いらっしゃいませ、こんにちは」が飛び交うお店には、対話はないのです。ただ、元気な「独り言」だけがあるのです。(中略)お客さんにも従業員にもマイナスなことをなぜ続けるのか。僕にはそれが不思議でしょうがないのです。

お客様とのメール応対や挨拶は、この「独り言」になっていないでしょうか。相手の目を見ず、ただ形式的に繰り返される言葉は、お客様に届きません。それはコミュニケーションではなく、鴻上さんの言う「あなたとは絶対にコミュニケーションしない」という儀式になりかねません。

税理士は、会計データという「記号化された人間」を扱う仕事ですが、その向こうには必ず「等身大の生身の人間」がいます。スマートフォンやパソコンなどデータ上でのやり取りが増え、「つながり孤独」が問題となる現代だからこそ、お客様と直接向き合い、体温の感じられる「対話」を大切にすべきなのだろうと考えます。

劇場は、客席という安全地帯にいながら、最も身近に現実の人間の存在を感じられる場所なのです。

税理士事務所もまた、お客様にとって悩みを安心して打ち明けられる「安全地帯」であるべきでしょう。そのためには、マニュアルではない、心からのコミュニケーションが不可欠だと思います。

おわりに

鴻上さんは、演劇は「不要不急」のものだからこそ、魂を込めて創るのだと言います。そして、作家の松尾スズキさんの「しょせん暇つぶし。しかし、人は命がけで暇をつぶしているのだ」という言葉を紹介しています。

税理士の仕事は、直接的に「不要不急」ではないかもしれません。しかし、税理士はお客様の「命がけの暇つぶし」である事業や人生に、深く関わっています。そのことを忘れず、一社一社、一人ひとりのお客様という観客のために、最高のパフォーマンスを提供し続けること。それが、AI時代に「生き残る」税理士の姿なのではないかと、本書を読んで改めて強く感じました。