「生産性至上主義」がもたらす罠。『移動と階級』から学ぶ、税理士としてのお客様への寄り添い方
こんにちは、栃木の税理士伊沢です。
伊藤将人氏の著書『移動と階級』を読みました。この本を読んで、現代社会の「移動できる人」と「移動できない人」の間に存在する大きな格差、そしてそれが私たちの無意識の価値観にどう影響しているかという点が、非常に印象的でした。
成功の神話と「移動」という資本
私たちは、なんとなく「移動距離が長い人ほど成功している」というイメージを持っていないでしょうか。
『成功は移動距離に比例する』『成功者は移動量が多い』といった類いの格言がある。これが本当ならば、好きなときに、好きな場所に、好きな方法で行ける、移動資本が高い人(移動強者)は「成功者」であると言えるかもしれない。
著書で語られるように、移動は単なる物理的な行為ではなく、「移動資本」という一種の能力や資産です。過去の移動経験の蓄積が次の移動を容易にし、将来の移動可能性を生み出します。そして、この「移動資本」を持つことが、イノベーションや成功につながると言われることも多いのです。
しかし、著者は、この「移動こそが成功」という考え方には注意が必要だと指摘します。
「移動はアントレプレナーシップを高める」というより、「移動は”高度人材”のアントレプレナーシップを高める」のであり、「移動がイノベーションを生み出す」というより、「移動が “高度人材”のイノベーションを生み出す」のである。
つまり、移動が成功に結びつくのは、もともと高いスキルや専門性を持つ「高度人材」にとっての話であり、すべての人が当てはまるわけではありません。移動の機会や可能性は、経済状況、心身の健康、家族の介護、生まれ育った地域といった様々な要因に強く影響を受けるからです。成功も失敗も、決して「自己責任」だけでは語れない、という視点は、自分自身の考え方を問い直すきっかけになります。
「移動しない」選択の価値
移動を「生産的」なものとして捉えがちではないでしょうか。電車やバスなどの移動時間を仕事や勉強に充てることを「有意義」と捉え、何もせず窓の外を眺めることを「無駄」だと感じる価値観。私も移動時間にぼーっとすることは悪いことであるかのような気になり、本を読んだり勉強したりと生産的な時間を過ごさなければならないという強迫観念があります。これは、私たちが生きる「生産性至上主義」の社会が作り出したものです。
しかし、著者は「移動しない」ことにも価値があることを強調します。
同時に重要なのは、「移動しない」という選択肢も含まれていることである。自分の移動能力をある程度コントロールできるからといって、常に人は動きまわるわけではないし、動きまわることを望むとも限らない。
地方に留まる人々、地域社会の維持に貢献する人々、家で家族を支える人々など、「移動しない」ことで価値を生み出している人たちがたくさんいます。そのような方達を「移動できない人」と安易に決めつけていないでしょうか。そして、自分たち自身の仕事において、この「移動しない」人々の価値を正しく評価できているでしょうか。
ある人の移動は、比較的モバイルではないほかの人々の存在を前提としているからである。あなたの旅行は、宿の従業員、駅員、飲食店の店員、バスやタクシーの運転手などがいなければ成立しない。(中略)その地域、その場所に留まりサービスを提供する彼らがいることで、モバイルで移動し続けることが可能になる。
顧問先であるお客様は、税理士が提供する「サービス」があるからこそ、安心して「移動」し、事業を継続することができるともいえます。お客様の「不動」な存在、つまり特定の場所で事業を続けられる状態があるからこそ、税理士の業務も成り立つと言えるでしょう。
税理士として大切にしたいこと
この本を読んで、税理士としての自分の立ち位置や、お客様との向き合い方を改めて考えさせられました。
多くのお客様は、経営者として日々奔走し、様々な場所へ移動する方も多いと思います。しかし、その中には、経営状況や事業の特性から、なかなか移動できない方もいらっしゃいます。例えば、地域に根差した商店、高齢の経営者、あるいは健康上の理由で移動が難しい方など。
税理士は、お客様の「移動資本」の大小を無意識のうちに判断したり、その価値観を押し付けたりしてはいけないと思います。お客様それぞれの事情や価値観を尊重し、お客様にとって最適なサポートをすることが重要です。
例えば、お客様の移動が難しい場合、こちらから訪問したり、あるいは、オンラインでの面談を提案したりする柔軟性を持つこと。また、お客様が「移動しない」ことを選択している背景にある合理性や、地域への貢献といった価値を理解することなどです。移動を通じて成功した人、そして移動しなくても成功した人、それぞれの生き方を尊重し、お客様の多様な事業形態に対応できる専門家でありたいと考えます。
『移動と階級』は、「成功=移動」という画一的な価値観を否定し、多様な生き方や在り方を受け入れることの大切さを教えてくれました。税理士として、お客様一人ひとりの「移動」と「不動」の両方の価値を理解し、その背後にある事情や価値観に寄り添うこと。それが、税理士に求められることの一つであると感じました。