『縄文人がなかなか稲作を始めない件』苗木あみ著 を読んで
この本を読んだきっかけ
上三川町立図書館の新刊コーナーにて、一見しただけではその内容がわからない不思議なタイトルに惹かれお借りしました。
一読した感想
縄文人について紹介するにとどまらず、縄文人の生き方を通じて私たち現代人の生き方を考える。タイトルから想像がつかない展開に驚きました。
向かうべき方向性は「前」に限らない
現代の強迫観念的信念によると、お金は増え続けねばいけないし、人類は進化しなければならないことになっています。それゆえ、私たちはありとあらゆる場所で──学校の休み時間や、電車の中や、テレビを見ているときでさえ──個人の行動は成長やスキルアップにつながっているべきで、ましてや理屈が通らない、理由や動機が説明できないようなことはするべきではない、としきりにアナウンスされます。そして毎日そんな情報にさらされれば、私たちもまた、なんとなくそんな気がしてしまうものです。しかしムラの中心に墓を掘り、常に死者の魂と密接な関わりをもって生活していた縄文人に言わせれば、人生には理屈や道理で説明できない物事のほうが圧倒的に多いのです。また、壮大なモニュメントやなんだかよくわからない土偶作りに大変な時間を注ぎ込んだ縄文人に言わせれば、人生には実益がない価値あるもののほうが圧倒的に多いのです。そしてこれもまた、縄文時代も現代も全く変わっていません。「いいもの」は前や上ばかりにあるのではないのです。
税理士業界では、「顧問先の数は何件あるのか」「従業員は何人雇っているのか」「立地の良い場所に事務所を構えているのか」「事務所の建物の大きさはどのくらいか」など、拡大路線こそが正しいという考え方が主流ではと思います。
私も独立した当初は、「税理士たるもの拡大路線で成長していくべき」という考え方を持っていました。これは、私が拡大路線以外の考え方を知らなかったことに起因すると思います。
ただし、当時自分でも不思議だったのは、同業者間でたびたび話題に上がる「従業員は○人」「顧問先は○件」といった、まるで数の多さを競い合うような話題に違和感を感じていたことです。もちろん自分も税理士事務所のいち経営者として、こういった話題に興味がないわけではありません。しかし、数の多さを競う拡大路線の話題になぜかのめり込めない自分がいたのは確かです。
その後、人との出会いや書籍などから必ずしも拡大路線のみが経営の正解ではないことを知り、私は数の多さを競う拡大路線を手放しました。拡大路線を手放すことで、「より多く、より大きく」といった行動をとらないので、周りから見たら地味に見えるかもしれません。しかし、世間が敷いた拡大路線に違和感を覚えながら乗るよりも、自分が敷いたレールに乗ることを選択しました。
その自分が敷いたレールとは、「より多く、より大きく」といった前や上を目指すのではなく、何よりもまずは、「今ここ」を大事にしようと考えるものです。この考えは自分を大事にすることになり、そのことで、家族、そしてお客様を大事にし、自分に関係させていただいている人たちに安定をもたらすことになると考えました。
縄文時代の膨大な遺物が語る、彼らの果てしない精神文化の豊穣さを前に、私たち現代人は圧倒されてしまいます。目指すべき唯一の方向は上、向かうべき唯一の方向は前だと教えられてきたのに、全くそれを望まずして輝く世界があることに気づくからです。今ここで生きているこの瞬間の命のきらめきを再認識し、向かうべき場所などどこにもないことにやっと気づくのです。
拡大路線をすすめていたが無理が祟って体調を崩したり、組織の急激な拡張により軋轢が生じてしまうなど、拡大路線による弊害は快挙にいとまがありません。こういった弊害を見聞きしてきたことも、私が拡大路線を手放す理由として大きく影響しています。ただし、ここで補足させていただきたいのですが、私は、拡大路線=悪として捉えているのではなく、自分の適性を考えずに、世間の拡大路線こそが正しいという画一的価値観を鵜呑みにしてしまうことが問題なのではと考えています。
先に述べたように、現在私は拡大路線とは距離を置いた経営をし、自分の納得がいく行動を取れていることに感謝していますが、これが私にとっての唯一の正解とは考えていません。変化がはやい時代に生きていくなか、今後も模索しながら自分のレールを敷いていきたいと思います。
人は常に上を向いているべきであるという信念によって、人類は歴史的に見ると非常に短期間のうちに、とんでもない経済成長や技術革新を成し遂げました。私たちの受けている数多の恩恵は、縄文人には、いや江戸人にだって想像もできないすばらしいものばかりです。治らないはずの病気が治ったり…もはや人の手にかかれば、どんなに困難な課題も解決できるのではないかと思ってしまいそうなほどです。それが転じて、個人の性格や隣人に対する不満など、どうしたって受け入れる以外どうしようもないことでさえも「がんばれば」思い通りになると信じている人もいるくらいです。しかし「なんでもできる」と信じる私たちは実際、とても滑稽です。私たちは、ただの1分後に起こることさえ予測できません。他人の感受性を推し量ることはおろか、自分自身の感情や意志だってコントロールできません。ましてや人の命についての決定権など何も持っていません。人一人の無力さは縄文時代も今も全く変わっていないのです。上を向いていくら足掻こうと、私など、どうせ矛盾だらけの理不尽な存在なのです。
近年、特定の会社に所属せず、その時々臨機応変にさまざまな職種を渡り歩く二足、三足のわらじを履く人が増えていたり、地方に移住して土地の自然に根ざした生活をする人が増えていたり、できるだけモノを所有せずに身軽に暮らすミニマリストが注目を集めたり、時代はどんどん「縄文的」になっていると感じます。もはや多くの人にとって、目指すべき唯一の方向は上ではないし、向かうべき唯一の方向は前ではないのです。これらの選択肢を選ぶ人々は、「地球に優しく」しているのでも、サステイナビリティを意識しているのでもなく、むしろ現代の画一的価値観が生み出す窮屈さから脱却しようとしているのだと思います。それは取りも直さず、縄文的諦め、もとい縄文的自由を選ぶということでもあります。
縄文人とは、きっとこの諦めの姿勢を 1万年間貫き通した人々だと思うのです。そもそも人の力でどうにかできることなんてほんの少しだったために、諦めが悪いとやっていけなかったというのもあると思います。しかし、何世代にも渡って作られ続けた、自然と一体化する装置としてのモニュメントや、モノも動物も(ときには人間まで!)同等の命として丁寧に送ったらしい貝塚を見ると、縄文人の諦めの姿勢には、それ以上に、「美学」といってもいい強い意志が働いていたような気がしてなりません。人間などとうてい及ばないという諦めの美学。自然の一部としての人間は、それ以上でもそれ以下でもないという諦めの美学。その諦めは、決して私たちから自信を奪うようなものではありません。「諦める」という日本語は、「明らかにする」と同じ語源です。つまり、現在地を明らかにする(見えるようにする)こと。それはつまり、足るを知るということでもあります。